【鎌倉街歩き/街歩きと鎌倉史】鎌倉五山と五山・十刹、山号の歴史(五山のルーツと成立、開山・開基)

南関東/静岡・山梨

鎌倉五山のロケーション

鎌倉五山は、全て、鎌倉市内の海沿いではなく山側に位置しています。

そのロケーションから、鎌倉五山のいずれの寺院も「閑静な環境」と共にある歴史を持っていることが色濃く伝わりますが、これは禅宗(臨済宗)が修行に適した静かな環境(山間部や「谷戸」など)を好んだことによっています。

五山のうち、第一位の建長寺、第二位の円覚寺、第四位の浄智寺は、いずれもJR北鎌倉駅の徒歩圏内かつ県道21号線沿いに集まっているため、まずはJR北鎌倉駅を起点とし、この三山を巡る散策が効率的です。

一方、第三位の寿福寺や第五位の浄妙寺はこの限りではなく、共にJR鎌倉駅が最寄り駅となります。

特に浄妙寺は北鎌倉駅からだとそれなりに離れた場所にありますが、寿福寺に関しては建長寺から鎌倉中心部へ向かう流れで立ち寄ることも可能です。

スタートを北鎌倉駅にするか、それとも鎌倉駅にするか。

あるいはどのお寺を「メイン」に据えるか、等々。

「五山めぐり」一つとってもルート選択の余地が複数ある、「お好み」や「気分」でどうとでも回れるあたりもまた、「鎌倉街歩き」の魅力の一つですね。

◾️関連リンク

Guide

  • 【鎌倉街歩き/鎌倉五山第一位】建長寺(長寿寺、鶴岡八幡宮傍)
  • 【鎌倉街歩き/鎌倉五山第二位】円覚寺(JR横須賀線北鎌倉駅下車すぐ)
  • 【鎌倉街歩き/鎌倉五山第四位】浄智寺(JR横須賀線北鎌倉駅下車)

五山制度と山号

鎌倉五山と京都五山

室町時代に確立された五山制度は、元々は鎌倉幕府が南宋(中国)の官寺かんじ制度に倣う形で導入したことに始まります。

北条得宗家(※1)が整備を進めた初期の五山制度は、「京都」は無し、「鎌倉」のみです。

「鎌倉五山」は五代執権・北条時頼の時代に始まり、九代執権・北条貞時の時代に初期の序列が定まったといわれていますが、元々は北条得宗家が私有していた寺(建長寺、円覚寺など)の公的な権威付けによって、擁立まもない宮家将軍、さらには朝廷に対する得宗家の優位性を助長するための制度として始まりました。

その狙い通り、元寇後には「五山」の公的な寺としての寺格が一気に飛躍すると同時に、得宗家による鎌倉五山の法制度化も進みます。

時はめぐって、室町幕府・三代将軍足利義満の時代。

鎌倉五山の再編と「京都五山」および「五山の上」の新設を経て、鎌倉・京都両五山は現在の形に定まると、時の文化の発信源としても機能しました(後述)。

各指定寺院の寺格は、以下の通りです。

序列 \ エリア鎌倉五山京都五山
一位建長寺天龍寺
二位円覚寺相国寺
三位寿福寺(※)建仁寺
四位浄智寺東福寺
五位浄妙寺万寿寺(非公開)
  • 南禅寺(京都):禅宗の最高位で、五山の上(南禅寺公式サイト)。
  • 鎌倉五山・京都五山:南禅寺に次ぐ寺格。
  • 表中リンクは公式サイトです(※:鎌倉観光公式ガイド)

この他、足利尊氏・直義ただよし(尊氏弟)らによって、地方の十刹・諸山も室町幕府の体制に組み込まれていきます。

「十刹」は五山に次ぐ寺格で名目上は「十」ですが、実際には京都・関東で10を大幅に上回る数の寺院が指定され、最終的には60余に上っています。

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  • ※1:頼朝亡き後の幕政の混乱の中で失脚した初代執権・北条時政(政子の父)の次男、二代執権の北条義時は、自身の次男である三代執権・北条泰時とともに「執権」政治の基盤を固めます。「得宗」とは二代執権・北条義時の法名に由来しますが、以降、義時・泰時の嫡流が「得宗家」として幕府の権力を掌握し、執権職も(得宗家を中心とした)北条氏の世襲となります。鎌倉五山の法制度化が進んだ五代・時頼の時代から九代・貞時の時代にかけての時代はまた、北条得宗家に鎌倉幕府の権力が一極集中していったという「得宗専制政治」の確立期にも当たります。

五山・十刹と北山文化

五山・十刹制度が整えられた足利義満の時代。

義満が京都・北山に建てた金閣を中心として栄えた文化は、「武家文化と公家文化の融合」を稀有な個性とすることでお馴染みです。その中心地の地名をとって「北山文化」と呼ばれた文化を精神的・学術的にリードしたのが、五山から生まれた禅宗文化でした。

五山を拠点として発信された水墨画や建築、漢詩文学など、宋・元(中国)の影響を強く受けた禅宗文化は、「五山文学」として当時の武家文化に多大な影響を与えます。このことは、当時の五山が単なる禅宗の拠点にあらず、最先端の知識や芸術が集まるアカデミックな社交場でもあったことを示しています。

山と寺院、山号、開山、開基、創建

山号

五山のいう「山」とは、お寺そのもののことです。

「その山にあるお寺だ」という意味が転じて、「お寺そのもの」を指すに至りました。

寺の名前に付された山の名前は山号さんごうといいますが、これはもともとは修行の場であるお寺が人里離れた山の中に建てられたことに由来します。

現在では街中にあるお寺にも山号が付きますが、例えば鎌倉五山でいえば、「巨福山こふくざん」建長寺、「瑞鹿山ずいろくさん」円覚興聖禅寺(円覚寺)で言われる、それぞれ「巨福山」と「瑞鹿山」が山号です。

開山と開基(創建)

開山とは、信仰のあり方、すなわち宗教的な場としての「お寺」を整えた人を指します。

これに対して、「創建(開基)」とは、その信仰に経済的な裏付けを与え、立派な施設などを実際に作った人を指します。

鎌倉五山一位・二位の場合は、以下の通りです。

  • 建長寺:蘭渓道隆らんけいどうりゅう開山/北条時頼開基(創建)
  • 円覚寺:無学祖元むがくそげん開山/北条時宗開基(創建)

天竺(てんじく)五精舎と五山制度

天竺五精舎と、宋代中国の五山制度

寺社名に山号を付す制度、および五山制度は、日本へは宋代(960年-1279年)の中国から伝わっていますが、中国の制度(五山、山号)自体はインドの天竺五精舎てんじくごしょうじゃを中国風に模したものとして始まりました。

天竺てんじくとはインドの旧名、精舎しょうじゃとは日本でいうお寺を意味しますが、天竺の精舎の中でも特に格式が高かった5つの精舎が天竺五精舎(=天竺五山)です。仏教の聖地・インドの仏教史の中でも、この5つの精舎は別格であったというとらえ方をしていますが、この「別格」扱いが、まずは宋代の中国に持ち込まれます。

元々禅宗が盛んとなった唐代(618年~907年)以降の中国では、禅宗の寺の多くが山中に建てられたことから「山号」の使用が一般的となっていたのですが、この慣習が後に作られた「5つのお寺を特別視する制度」と合わさることになるんですね。

インドの天竺五精舎が純粋な修行の聖地であったことに対して、中国における五山制度では、特に高い寺格を認定された寺院が「五山」として官寺として国家体制に組み込まれたこと、さらには「聖地の権威」が政治的な権威と一体化することによって経済的な利益の源泉となったことに特徴があります。

日本の五山制度の実態

導入時期には諸説ありますが、日本に持ち込まれたのは前記した南宋の五山制度です。

つまり、日本の五山制度もまた「純粋に仏教の修行の場として讃えるだけの制度ではなかった」ということで、制度が確立された室町時代の五山の僧侶たちは、単なる修行者にとどまらず、高度な知性や語学力を活かした「外交や貿易の担い手」としても活躍します。

当時の五山は「単なる禅宗の拠点にあらず、最先端の知識や芸術が集まるアカデミックな社交場」となっており、彼らの先導する国家プロジェクト(天龍寺船での対外交易、外交実務、教育事業etc)は幕府に巨万の富をもたらすと同時に、当時の最先端文化である「五山文学」の知力と財力を支える強固な屋台骨となっていきました。

◾️参考資料

  • 島尾新・小島毅「東アジアの中の五山文化」(東京大学出版会、2014.1.9)

天竺五精舎と「もののあはれ」

天竺五精舎の起こりは初期仏教の時代、仏教の開祖である釈迦の存命中、紀元前5世紀ごろにあります。

「平家物語」の冒頭に出てくる有名な一文で、

  • 祇園精舎ぎおんしょうじゃの鐘の声 諸行無常の響きあり』

と謳われた「祇園精舎」は、釈迦が説法の拠点とした精舎であり、天竺五精舎の一つに数えられていました。

王族や豪商など、時の富裕層にあたる信者たちが「修行の場」を寄進したことを興りとする「精舎」を中心としたインドの仏教は、内政の安定と共に盛期へ向かったのち、ヒンズー教の台頭や他民族の流入を契機として衰退に向かいます。

盛期はおよそ2世紀ごろまで、その後4世紀ごろから始まった衰退は、「かつての影」がほぼ消滅した13世紀初頭頃まで継続しました。

ところで、「平家物語」が世に出た鎌倉時代の日本の知識階層の間では、「西遊記」でお馴染み三蔵法師が記した「大唐西域記」(インド旅行記)が、国際情勢解釈のベースとなっていました。

史実が記された「大唐西域記」はフィクションである「西遊記」の元ネタとなった作品に当たりますが、「大唐西域記」は7世紀半ばに、「西遊記」はその約1000年後にあたる16世紀半ばに、それぞれ当時の中国で世に出されます。

日本には奈良時代に伝わったとされる「大唐西域記」が伝えた祇園精舎の「リアル」は、華やかだったとされるかつてとはかけ離れ、既に荒廃が進んだ様子だったのですが、「平家物語」冒頭では「祇園精舎」が体現した無常感が「平家の盛衰」に重ねられます。

「大唐西域記」が伝える史実に、古代インドの祇園精舎には存在しなかった「鐘の声」という日本的な響きが重ねられたことを端緒として、

  • 沙羅双樹さらそうじゅの花の色、盛者必衰じょうしゃひっすいことわりをあらわす。
  • おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
  • たけき者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前のちりに同じ。

日本固有の「もののあはれ」を感じさせる情緒的な表現とともに、今に残る古典名作の全体像が一目で掴める秀逸な導入を形成しています。

ちなみに、諸行無常すなわち「万物は流転する」と言う「真理」は、奇しくも釈迦とほぼ同時代(紀元前5世紀ごろ)を生きた古代ギリシャの哲学者・ヘラクレイトスの”panta rheiパンタ レイ“という言葉にも通底しています。

「世のすべての存在は時間の経過と共に移ろいゆく」のが真理であるということで、どこか鴨長明の「方丈記」冒頭を思わせるような切り口でもありますが、ヘラクレイトスの名言が内包する「哲学的な理性」の言わんとすることは、ギリシャ衰亡後のローマへの変遷しかり、ローマ分裂後の西欧・東欧への変遷しかり、闘争の果てにある強制的な時代の分断を思わせますね。

ともあれ、後世の奥州平泉にて、

  • 「夏草や兵どもが夢の跡」

と「おくのほそ道」道中にあった松尾芭蕉が詠んだように、平安末期から鎌倉時代を生きた人々にとっての現実もまた、やがては「たけき者もつひには滅びぬ」という結末へと連なっていきます。

◾️関連リンク

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