【鎌倉街歩き/街歩きと鎌倉史】山ノ内と山内上杉氏(北鎌倉と鎌倉、室町、戦国時代)

南関東/静岡・山梨

鎌倉・山ノ内と北条氏

鎌倉時代までの「山ノ内」

鎌倉市山ノ内は、JR北鎌倉駅を中心とする、山と海に囲まれた鎌倉の「山」側に該当する一帯です。

鎌倉五山をはじめとする名刹が多く集まるほか、「北条得宗家」との間に深い縁が宿っていることでもお馴染みですが(※1)、現在の地名にも残る「山ノ内」のルーツは、地形由来の「山内」が首藤氏が開拓した荘園名「山内庄」に用いられ、最終的に山内庄を本領とした「山内首藤やまのうちすどう」氏の苗字となったことにあると推定されます。

いずれも平安時代のことで、現在も北鎌倉の地に残る古刹・明月院のルーツは、この山内首藤氏の時代の鎌倉にあるとされていますが(※2)、その後時が流れて鎌倉時代になると、「山ノ内」は代々執権職を勤めた北条得宗家の拠点となりました(※3)。

現在の北鎌倉エリアに北条氏(得宗家)ゆかりのお寺が多い事情は、今の鎌倉にもこの時代の跡が多く残されていることによっています。

◾️関連リンク

Guide

  • 【鎌倉街歩き/街歩きと鎌倉史】鎌倉五山と五山・十刹、山号の歴史(五山のルーツと成立、開山・開基)(※1)
  • 【鎌倉街歩き/鎌倉三十三観音】明月院(JR横須賀線北鎌倉駅下車、あじさい寺)(※2)
  • 【鎌倉街歩き/街歩きと鎌倉史】鎌倉幕府前史、十三人の合議制と執権職(※3)

北条氏と後北条氏

伊勢新九郎盛時(北条早雲)を祖とし、戦国時代に小田原を拠点とした「北条氏」は「鎌倉幕府で代々執権を勤めた北条氏」とは別の家系にあたります。

この事情は、実際に「北条氏」を名乗るのが二代・氏綱以降であるという点からも汲み取れますが、そもそも二代・氏綱が「北条」への改名を試みたのは「北条得宗家の威光を強く意識したためだ」とする有力説も存在します。

その根拠の一つとしてしばしば語られるのが、後北条氏二代以降の通字とおりじである「氏」の存在です。

曰く「名字として「北条」を継ぎ、名に「氏」を冠することによって、代々の当主が「北条氏〇」という形を継承していくことになる」、すなわち北条得宗家というかつての正統な支配者の名を自らの家系に刻み込み、関東支配の正当性を示そうとした意図の表れがそこに汲み取れる、という解釈に繋がっているんですね。

少なくともこの捉え方の下では、小田原を拠点とした後北条氏にとって「かつて山ノ内を拠点とした北条得宗家」の存在は強く意識してやまないものであったことが考えられますが、その「鎌倉・山ノ内」に時勢の行きがかり上新たに縁を持つことになったのが、足利尊氏の血縁かつ「貴族の家系」である上杉家の嫡流でした。

山内上杉、扇ケ谷上杉と後北条氏

上杉家と「鎌倉の地」の縁は、室町幕府初代将軍・足利尊氏の母、上杉清子の家系であることが起点となっています。

「上杉」を名乗る清子の本姓(歴史的なルーツとしての「氏」)は藤原、「勧修寺流かじゅうじりゅう」という藤原北家の支流にあたる名家なのですが、その「名家の末裔」上杉氏に「関東の将軍職」にあたる鎌倉公方の補佐役・関東管領の任が与えられると、上杉家自体が「北条得宗家」に変わる一大勢力となって鎌倉各所に居を構えました。

中でも山ノ内に拠点を構えた山内上杉家(本家)が代々世襲によって関東管領の職を全うすることとなるのですが、やがて山内上杉家と鎌倉公方・足利家の間で応仁の乱の前哨戦とも言われる享徳の乱(※1)が勃発すると、結果的には「享徳の乱」自体が原因を内包していたという形になってしまった「お家騒動」、長享ちょうきょうの乱(※2)を誘発します。

長享の乱は山内上杉・扇ヶ谷上杉両家の全面戦争となって20年弱続くことになるのですが、戦乱に次ぐ戦乱を経ることで両上杉家の勢力が目に見えて衰退を始めたこの時、弱り行く両上杉家を相手取って双方を圧迫したのが、当時すでに小田原を拠点としていた前記「後北条家」の面々(初代早雲、二代氏綱、三代氏康)でした。

やがて三代・氏康が1546(天文15)年の河越夜戦で扇ケ谷上杉氏を滅亡に追い込み、山内上杉家15代当主だった上杉憲政をも連戦連敗へ追い込むと、最終的に上杉家は一度鎌倉の地を追われることとなります。

◾️関連ガイド

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  • ※1:三代義満、四代義持時代の安定期を過ぎた室町幕府では、幕府と鎌倉府(特に鎌倉公方)、さらには鎌倉公方と関東管領の不仲が常態化・顕在化します。1454年、五代鎌倉公方・足利成氏しげうじが元々不仲だった関東管領・上杉憲忠のりただを謀殺したことによって勃発した「享徳の乱」も、その不穏な空気が前提となっていました。以降、当時の関東地方は全国に先駆けて「戦国」入りしますが、幕府政治の権力争いを主要因とする「応仁の乱」が勃発するのはこの約10年後、1467年のことです。
  • ※2:扇ケ谷上杉家の名家老、江戸城を築城したことでも有名な太田道灌の活躍・暗殺を通じ、本家である山内上杉家と分家に当たる扇ヶ谷上杉家のパワーバランスや和平の空気が崩壊したことで勃発しました(1487〜1505年)。長享の乱で両上杉家がお互いの勢力を削りあっていた時期はまた、旧来の権威が瓦解し新興勢力が躍進を始めるという、応仁の乱に端を発する「下剋上」の気風が全国に波及を始めた時期でもありました。

長尾景虎と山内上杉家

「お家騒動」から派生した戦乱にて一族滅亡の危機に追い込まれた上杉憲政は、起死回生の策として、山内上杉家の守護代、越後長尾家を頼みにします。

長尾家にとって主君筋にあたる山内上杉家の当主・憲政から「山内上杉家の家督」「関東管領の地位」譲渡とともに救援要請を受けたのは、「越後の虎」こと長尾景虎、のちの上杉謙信でした。

1560年、主君・憲政を掲げて立った景虎は、後北条氏の圧政に苦しんでいた関東中の武士、その規模10万越とされる大軍勢とともに関東へ討って出ると、翌1561年には鶴岡八幡宮にて上杉憲政から正式に関東管領の職と「上杉」の苗字、「政」の一字を譲り受けて上杉政虎となり、その勢いのまま小田原へと攻め込んで城下町を焼き討ちします(※1)。

「山内上杉」の残党はじめ、多くの武士の期待を背負って「最後の関東管領」となった謙信ではありましたが、以降の戦いでは氏康の籠城戦に対して詰めの一手を打ちきれなかったことから(※2)、後北条相手の戦いでは勝敗のつかないイタチごっこが継続します。

同時期の上杉謙信は、宿敵・武田信玄を相手取って後世に語り継がれる名勝負(都合12年、5次に渡る川中島の戦い)を繰り広げている最中でもあったのですが、謙信にとって信玄・後北条相手の戦いは武力戦に政争が絡んだものとなったのち、特に織田信長の天下統一事業とも密接に絡み合って進むこととなりました。

当初より一方の極には中央政府が絡んでいたとはいえ、元々は「鎌倉ローカル」の争いで始まったはずの騒乱が、いつしか全国統一のピースの一つと化していた形ですね。

最終的に謙信・信玄の両雄は志半ばで病に倒れ、「後北条」は信長亡き後の豊臣秀吉によって滅亡に追い込まれていますが(※3)、謙信に託された「山内上杉」当主の地位は、謙信の養子同士の家督争いである「御館おたての乱」ののち、謙信の甥にあたる長尾家側の上杉景勝の手に渡ります。

やがて豊臣家の手をすり落ち徳川家の手中へ移る「天下統一」争いの中、豊臣政権五大老の地位から徳川家の反目に回った景勝は、江戸幕府創設にあたって米沢へ転封されると「米沢上杉家」当主となって江戸時代を迎えました。

◾️関連リンク

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  • ※1:のち、新たに輝虎に改名していますが、以降の文中では「上杉謙信」ないしは「謙信」で統一します。
  • 【鎌倉街歩き/鎌倉江ノ島七福神】鶴岡八幡宮(JR鎌倉駅最寄り、若宮大路沿い)
  • ※2:毎年積雪前に越後山脈を超えて領土に帰る必要があったため、「期間限定」の籠城戦で小田原城を落とすことが至難の業となっていました。
  • 【鎌倉街歩き/鎌倉三十三観音】東慶寺(JR横須賀線北鎌倉駅下車、円覚寺傍)(※3)
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