【19年青春18きっぷの旅/2026リマスター】旧中山道の宿場町、奈良井宿(JR中央本線、奈良井駅傍)

北関東/甲信越/中部

about 奈良井宿

history

奈良井宿ならいじゅくが中山道の宿場町に指定されたのは1601年、五街道の整備が決められた年と同年にあたります。

とはいえ、文献に残された記録によると、そのさらに半世紀以上前(1530年代)にはすでに宿場町が作られていたようで、ほぼ同時期の奈良井には真宗大谷派の専念寺というお寺も作られています(※)。

五街道・中山道の拠点としての繁栄もまた、もとより必然ではあったのでしょう。

木曽路に造られた「木曽11宿」の中でもっとも標高が高い宿場町・奈良井宿は、中山道屈指の難所といわれた鳥居峠傍に作られつつも、最盛期には「奈良井千軒」と称えらるまでに繫栄しました。

「千軒」は宿泊施設や商業施設等の数量を表していますが、「千軒」が実数としてカウントされた記録が残されているわけではなく、最盛期にはそのくらいの規模で発展していたのだということを後世に伝え残しています。

その後時は巡り、今も奈良井に宿場町時代の姿が保存されている理由としては、「明治期・富国強兵時代の道路改修の際、中山道の奈良井宿を通過する区間が国道指定から外されたため、幸運にもかつての姿が後世に残されることとなったのだ」という事情があったようです。

仮に明治政府が「旧中山道の馬車交通化」に身の丈を超えた執着心を見せていたとしたら、今の奈良井はなかったということになるのでしょう。

ほぼ同時期の明治政府は同じ高地の清水峠で大失敗を犯していますが(※2)、あるいは「奈良井」では政府としても何か学ぶものがあったということなのか、結論としては、徳川の慧眼が250年にわたる「泰平の時代」を通じ後押ししたこと、および近視眼的な「近代化」に凝り固まった明治政府の撤退が、日本の文化遺産を後世に引き継ぐことを可能としました。

ただしこのことが明確な形になるまでには、奈良井に残った人たちの並々ならぬ努力と共に、少々の時間が必要となります。

新規の国道や鉄道が開通する横で、相対的に旧中山道(旧奈良井宿を含む区間)が干される形となったためですが、かつての繁栄に比べたら細々続く形となった「奈良井宿」は、昭和後半に始まった「ディスカバー・ジャパン」ブーム(※3)、すなわち時の国鉄が仕掛けた「ライフスタイルとタイアップした観光」人気の向上とともに「再生」に向かいます。

当時の「ディスカバー・ジャパン」とは、昨今でいうところの「自分探し」の元祖のような国内観光で、国鉄の「仕掛け」としては後続する「ブルートレインブーム」「青春18きっぷ」の誕生とも同一の軸にあった戦略です(※4)。

当時の若い女性たちに訴求した戦略(ディスカバー・ジャパン)がヒットしたことで、のちに若い男性たちをターゲットとした「ブルートレイン」等々のヒットを呼び込んだ形ですが、その動向を意訳するのであれば、既に当時の日本人一般は、近代化や高度成長の果てで自分自身や自分たちのルーツを見失いつつあったということなのでしょう。

こと「一個の自己」や「民族としてのアイデンティティ」等々といった話になると、令和の今でも明確な結論が出されているとは言い難い、なかなか難しい側面も浮上することにはなりますが、ともあれ。

現在の旧・奈良井宿は、国(文化庁)の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、その美しい歴史的価値を今に伝えています(※5)。

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Info・参考資料

宿場町までの案内

JR奈良井駅前から奈良井宿までの間には、多少歩くとはいえ言うほど歩くわけでもないという、程よい距離があります。

「かつての宿場町」は駅前に通された道から道なりに続く先で、案内板もいくつか出ているのですが、

「この先奈良井宿です」という地点にも、案内板が設置されています。

「JR奈良井駅から奈良井宿まで」の道に迷うことは恐らくないと思いますが、奈良井宿でお目当ての場所を目指すにあたっては、ややハードルが上がります。宿場町の総延長は8町5間=約900m、見所はその両サイドに延々続くことになるので、最低限の事前のチェックが必要になります。

宿場町・奈良井を街歩き

奈良井宿と「屋号」

旧街道に作られた宿場町の名残りがある街では、今でも家ごと、施設ごとに、宿場町時代の屋号が掲げられている場合があります。奈良井宿の場合、同じ苗字の家が何軒もあるので苗字で呼んでもわかり辛い、だから昔からの屋号で識別する方がわかりやすい、ということでもあるようです。

観光案内所や観光施設で伺ったお話によると、先祖代々のご近所さん同士がずっと奈良井宿を盛り立ててきたとのことで、観光旅行で楽しむ分にも常にアットホーム感がありました。

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メインストリートと木曽山脈、木曽路

旧・中山道にて前方を望むと、宿場町の向こうには木曾路が通された山脈が見えています。

島崎藤村の『夜明け前』冒頭で「木曾路きそじはすべて山の中である」(※)と謳われた、まさに只中の風景ですね。

海抜1000メートル地点にある奈良井よりもさらに高いところに見えている稜線は、ざっくりとした方向的には、御嶽山の最高峰である剣ヶ峰に連なっている稜線だと思われます。

この山脈のふもと部分にあたる高地をなぞるように通されているのが、奈良井宿のメインストリートを含む「中山道の木曽路」です。木曽路とは、その大半が森林で構成されているという中山道「木曽エリア」の愛称です。

幕府が直轄する五街道ありし日の木曽路は、奈良井宿を含む11の宿場町を有していました。

木曾漆器や木曾の木工品などといった「木曽の地場産業」は、尾張藩の保護、および地域の人々の努力によって、やがて中山道経由で全国区のブランドに成長します。土産品として好評を博したことがそのきっかけですが、要は中山道・木曽路あっての奈良井宿でもあったということですね。

既述のように、明治政府が主導した近代化政策の弊害によって木曽路の奈良井宿は一度衰退の時を迎えるのですが、のちにそのことが奏功する形で文化的な再評価を受けて再生し、今に至ります。

「地元の人以外の車での通行はご遠慮ください」という奈良井宿のメインストリートは、繰り返しになりますが旧中山道・木曽路です。

島崎藤村の『夜明け前』では、明治政府が主導した近代化の負の側面、すなわち国権の独断で「古き」が強制排除されていった様子が同じ木曽路の馬籠宿まごめじゅくを舞台に描かれていますが(※)、奈良井の木曽路には今も「そうなる前の日本」が残されています。

「車線」「車幅」を意識させないゆとりある道幅は観光散策にも優しいですが、この道は現在、地元の小学生~高校生の通学路としても使われているようです。

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Info・参考資料

酒造・杉の森

奈良井宿の街並みに自然に溶け込んでいる施設に、寛政5年(1793年)創業の「酒造・杉の森」があります(残念ながら現在は休業中のようです)。

現在の会社の平均寿命がおよそ20年~30年程度だといわれている中、その約10倍にあたるという、200年以上続いていた会社ですね。

ところで寛政5年といえば、世は徳川幕府の11代将軍・徳川家斉の時代です。

その中でも特に、老中・松平定信が主導権を持っていた時代(=寛政の改革期)が終わり、諸々あった結果江戸時代の庶民文化の集大成となる時代が訪れることとなったという、そんな節目の年にあたります。

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奈良井の湧き水

宿場町内の街道沿いのところどころでは、今でも煮沸すれば飲用として使える湧き水が湧いています。

「ナショ文字」看板

「ナショナル」ブランドを使用していた松下電器がパナソニックになって久しい今日この頃ですが、少し懐かし目のところで、いわゆる「ナショ文字」の看板を見かけました。

奈良井宿の文化財と「夜」

元櫛問屋・中村邸(国指定重要文化財)や、上問屋資料館(国指定重要文化財)について、さらには夜の奈良井宿の様子については、別記事にまとめました。

  • 【19年青春18きっぷの旅/2026リマスター】旧中山道・奈良井宿 -元櫛問屋 中村邸(国指定重要文化財)-
  • 【19年青春18きっぷの旅/2026リマスター】旧中山道・奈良井宿 -上問屋資料館(国指定重要文化財)-
  • 【19年青春18きっぷの旅/2026リマスター】旧中山道の宿場町・奈良井宿泊

御宿 伊勢屋

今回の青春18きっぷ旅最初の宿泊先、旧中山道沿いにある「伊勢屋」です。昔の宿場町の面影を残す外見と、格子戸から中山道を臨める宿泊部屋があるということで、旅行前、宿泊前から宿泊を楽しみにしていました。

テーブル奥にある布団は、朝晩は夏でも涼しいと聞いていたので念のため部屋に持ち込んだ(宿で用意されていた)「冬用」の掛布団です。新旧が融合した客室は居心地も抜群で、

障子と格子戸の向こう、すぐそこには中山道が見えていますが、旧街道在りし日の旅人気分をまんま疑似体験できそうな空間に、期待は膨らむばかり。

チェックイン後のひとときの後、再び中山道へ出てみることにしました。

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