富岡製糸場の創設と生糸貿易、世界遺産登録
日本が開国を要求され、かつ開国する運びとなった19世紀半ば。
欧州の養蚕地であったフランスやイタリアでは蚕の病気が蔓延し、中国ではアヘン戦争などの政情不安に見舞われたことから、世界の養蚕・製糸業は深刻な供給不足に陥っていました。
時の日本はこの機を逃さず、生糸の輸出を国策の柱に据えると、その戦略的中核として「富岡製糸場」建設を立案・実行します。
明治3(1870)年に計画が立案されると、わずか2年後の明治5(1872)年には操業を開始。まさに国の肝いりで近代化の牽引が期待された結果、「富岡」がリードした生糸産業は日本の主力産業となりました。
開国まもない日本においてお茶やお米と並ぶ主力輸出品目となったのみならず、やがて日本の主力輸出品目の中でも最も強力な品目へと成長を遂げることになるのですが、富岡製糸場自体も1893(明治26)年の民営化後、なんと昭和62(1987)年まで、一民間工場として115年もの長きにわたり操業を続けました。
操業停止後、製糸場が極めて良好な状態で保存されたのは、ひとえに最後に保有していた片倉工業の尽力によるものです。
「これまでの歴史や、情熱を紡いでいきたいという思いから、建物や機械のひとつひとつを、18年間、手をかけて守り続けてきました」(公式サイトより引用)という同社の真摯な姿勢が、歴史のバトンを未来へ繋ぐ形となりました。
やがて2005年(平成17年)には富岡市が製糸場の保存・管理を引き継ぐと、2014年(平成26年)には「富岡製糸場と絹産業遺産群」が世界遺産に登録されています。
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入り口付近

富岡製糸場の入り口付近からの風景です。
つきあたりに見える赤レンガの建物は東置繭所、この奥にもう一棟、ほぼ同じ大きさの西置繭所があります。
門外からも見える東置繭所は、富岡製糸場の歴史を説明したボード展示など観光案内スペースとして使われていますが、現在東西の置繭所は共に国宝指定されています。
「置繭所」の読みかたですが、公式パンフには「おきまゆじょ」とカナがふってあります。
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富岡製糸場・施設内
検査人館

門を入ってすぐ横には、券売所と、その並びに管理事務所があります。
現在の管理事務所は、製糸場操業時には検査人館(検査人の寄宿舎)として機能していた建物です。
検査人とは出来上がった生糸の質をチェックする人たちのことですが、生糸の大量生産が進むにつれて目立つようになった粗悪品対策のために、その役職が設けられました。
貿易港である横浜や神戸には生糸検査所が置かれていましたが、富岡で作られた生糸は、富岡での検査と横浜での検査を通過した後、横浜港を通じてアメリカへと輸出されました。
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Guide
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製糸業と蚕

開国後の日本を「生糸」で支えた、国家存立の影の立役者となった蚕さんです。

今も富岡製糸場内で、食べたり寝たりしています。
蚕は現在野生に存在することが出来ない生物なので、生糸の原料となる繭を作るために生まれて来て、人間に育てられつつ生きていくという一生が運命付けられています。
文字通り「温室育ち」だった無数の蚕の生涯が富国強兵の源となって、やがてインフラの在り方さえも変えていく大変革の原動力となったことを思うと、「強さとはなんぞや」なんて根源的な疑問が頭をもたげてきたりもしますね。
東置繭所

向かって右側に位置しているのは東置繭所、左側は検査人館・女工館です。
「置繭所」は蚕の住処、「女工館」は日本人の女工に製糸の技術を教えるために雇われたフランス人女教師達のための住居です。

東置繭館、赤レンガ造りの建物の内部の様子です。
残された部分だけから判断しても、立派なスペースだったのであろうことが伝わってきます。
生糸工場/役員用社宅

蚕の住居だった東置繭所(右)の左隣は生糸工場で、

東西の置繭所のすぐそば、東置繭所よりのところには、役員用の社宅があります。
ブリュナ館(旧ポール・ブリュナ宅)

置繭所や繰糸所(製糸工場)を挟んで反対側に位置する建物のうち、目を引くのは製糸場のお雇い外国人だったポール・ブリュナの住居=ブリュナ館です。記念撮影用のプレートがすぐ前に出ていますが、かなり立派な建物です。
個人の住居というよりは、見た目的にも大きさ的にも、体育館や講堂を思わせるスケールがあります。

ブリュナ館の前には、世界遺産登録を記念した碑が置かれています。
女工さん達の寮=寄宿舎

ブリュナ館のすぐとなりにあるのが、製糸場で働いていた女工さん達の寮=寄宿舎です。
建物の老朽化自体は鮮明ですが、それでも一見したところ修復さえすれば今でも人の居住に足る建物には見えるあたり、明治の世に新設された当時はさぞ立派な寮だったのであろうことが察せられます。
実際、創業時の富岡製糸場で女工さんをしていた和田英さんの『富岡日記』によると、富岡製糸場での工員生活は、規則正しくもそれなりに張り合いがあり、楽しいものだったようです。
とはいえ、こと「かつての女工生活の実態」という話になると、往々にして『女工哀史』や『ああ野麦峠』で描かれた悲惨なイメージが先行しがちなため、その実態は両極端なイメージの狭間で語られることが少なくありません。
では、この点の実際のところはどうだったのか。
思うに、参照する資料や時代の変遷、あるいは経営母体の違いによって、工場の操業実態には大きな差があったとするのが事実に近いのでしょう。
ヒステリックな「一事が万事」ではなく、ですね。
少なくとも富岡製糸場の見学からは、『富岡日記』の世界観とも相まって、決して美化されたフィクションではない、等身大で活気ある「明治」の息遣いが感じられました。
診療所

ブリュナ館、女工館(フランス人女性指導教官宅)のすぐ傍には診療所があります。

付近一帯は、そのまま在りし日の雰囲気を残しているようにも見えますが、

右側の建物が診療所、左がブリュナ館です。
鏑(かぶら)川

富岡製糸場のすぐ横を流れるのは、鏑川です。
綺麗な水を利用できることも製糸場設置の条件に挙げられるものですが、今は観光地・富岡製糸場の魅力の一部となっています。

